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届いた本を読み始め…♪

最近、歴史に関する本…と言っても元軍人、
何度かご紹介してきた石原莞爾と井上成美などが登場する本を
3冊まとめて購入しました。

まずは石原に関して……
石原莞爾とは…
陸軍軍人。関東軍参謀として満州事変と
満州国建設を指揮したことで知られる。
1909年陸軍士官学校,18年陸軍大学校卒業。
ドイツ駐在。陸軍大学校教官などを歴任後,28年中佐,関東軍参謀。
特異なキャラクターから異端児としても知られる。

石原莞爾については、内閣総理大臣に上り詰めたあの東条英機と敵対し
東條本人が居る所でも『東條上等兵』と呼んで見下していた…
と聞き及んではおりましたが
最近になり、そもそもどんな人物なんだろうと調べてみたら
「アスペルガーだったのではないか」という言葉に何度かぶつかりました。
なるほど…う~ん、まぁ…何となくその傾向は見受けられるなぁ~と感じ
石原に対してグッと興味がわいてきたんです。
それは何故かと言いますと、私の息子が自閉症だからです。
アスペルガー症候群は自閉症の一つのタイプです。
コミュニケーションの問題(社会性の問題)・正直すぎる(思った事を口に出す)・話し方が回りくどい、曖昧が苦手、細かいところにこだわる・パターン的行動、生真面目すぎて融通が利かない・コレクション(物へのこだわり)などなどの特徴があると言われております。
またアスペルガー症候群の人は知的な遅れはなく、寧ろ天才と称されるような知的レベルが高い人達が多いのが特徴としてあります。
とまぁ…これらの事はこれ位にして……
石原莞爾…彼は天才的であり、上下関係厳しい軍内部にあっても、
上官に恐れることなく楯突き(バカ・無能呼ばわりしたり)
(↑ここの部分は過去記事を参照なさって下さい)
だけれども、部下には優しく接し、
愛妻家で留学先から妻へ書き送った手紙には
愛情あふれる文面がしたためられている……。
やはりなかなかユニークな人物ではありますね。
石原莞爾7b



石原本は石原が中国の漢口とドイツ留学した際に、
妻に書き送った手紙が紹介してある2冊を今回購入しました。
それではほんの一部ですが石原から
妻・銻子への手紙をご紹介したいと思います。
※(銻(てい)ちゃん=妻)

『あなたの手紙と一緒に滝本、山本二人からも来ました。
滝本さんの中にもあの写真が入って居ました。
実は驚いたのです。日頃から銻ちゃんの写真を見たく鎌倉で写したものや、座敷で二人で写したものを出しては眺めて居ましたが、是非一人で写したものを一枚送ってくれるようにお願いしようと思って居たところでした。
久しぶりにであ(会)った様で何とも申されません。それに大変良く写って居るものですから。
肉体を持っている私共としては、小さな切ない悲しみや淋しさは止むを得ない事です。
銻ちゃんの模様は私も日夜察して居ます。
三十二才になった五尺五寸のこの男とても、勿論心の中は変わりがありませぬ。
この切ない思いは誠に悲しいが、然し誠に美しいものではありませぬか。
銻ちゃんの手紙を繰り返し読むことは、私の何よりの楽しみなのです。
もう大分遅くなりましたから、今日は休みます。
銻ちゃんの写真が機嫌よく私の方を見て居ますから思わず"お休み"とご挨拶をしました。』


『大変暑い日ですが、鈴木君を案内し汗びっしょりになりまして只今(午後四時)武昌から帰って来たところです。
丁度その時二十七日発のお手紙が届きました。
銻ちゃん、また男泣かされました。何と申し上げてよいやら解りませぬ。
嗚呼世の中に最も強いものは愛の力です。
私はこの三十二才までこんな気持ちになった事は全くありませんでした。
清く美しく大きい銻ちゃんの愛に懐かれて今私は霊山浄土の人となって居ます。』


『私の銻ちゃんに対する恋慕、抑える事の出来ないこの心!』

と…、ほぼ毎日のように外国から
日本で暮らす妻へ熱い熱い手紙を出す石原。
しかし、奥様の方はこの溢れんばかりの情熱に多少引き気味?な事と
尚且つ元来筆不精だったようで、毎日毎日手紙を投函する石原とは対照的に
妻からの手紙は減って行ったようです。
これに焦りを感じた石原は……
『今日もお手紙がありませぬ。
お便りないのは途中で紛失したのではないかと思って一番心配になります。』
『電報を打ちましたのが一昨日ですから、もう返電が来そうなものと考えながら、
寂しい寂しい一日を過ごしました。』

などという内容の文面が増えてきます。
そしてとうとう、妻を勤務先の中国に呼び寄せる決心をする石原。
『せめて二月十六日、二月十五日は御一所(ご一緒)に!!!』
石原の強い想いにこたえるべく、
ついに妻も中国にいる石原の元へ向かう事になりました。
『嬉しくて嬉しくて堪りませぬ。今日までこんな気持ちになった事はありませんでした。
数日前の私と、今日の私とどうしてこう違ったのでしょう。
ああ懐かしい銻ちゃんよ!。』

いや~、なかなか情熱的なお手紙を拝見し、
微笑ましく思いました
奥様に対してというか恋愛に対してピュアな方だったんだな~と。
これがあの満州事変を引き起こした首謀者と同一人物とは…
人間は奥深いな……と改めて思いました。
石原は自分を『生まれつきのかなしさを持った人間』だと
言っていたそうですが
天才が故の孤独が付きまとっていた中で、
奥様という存在が、石原に癒しをもたらしていたのかもしれませんね。
DSCF4456.jpg



それにしても読み辛い(笑)
旧かなづかいやカタカナ書きなどで
読み進めるのにいつもより時間を要してしまいました。
世代的に私の両親など、この様な文でも
スラスラと読んでしまうんでしょうね~(笑)。
DSCF4457.jpg





そしてこちらは【秘蔵写真でよみがえる:大日本帝国軍人の肖像】という写真集なんですが
あの井上成美の写真も紹介されている…
という事で石原本と一緒に取り寄せてみました。
若き日の井上…おぉ~!結構イケメンじゃありませんか~!
一般的に目にする井上の写真は年配で
ちょび髭のオジサンという印象だったので
少々驚きました(笑)。
DSCF4459.jpg



奥様を早くに病気で亡くされた後も、
女性関係は清くお過ごしになられたご様子から
きっと奥様は素敵な方だったに違いない…と勝手に思っておりましたが
今回結婚の記念写真を拝見し、私の予想通り
とても聡明な感じのお綺麗な方だな~と感慨深く思いました。
DSCF4464.jpg

最後の海軍大将として知られた【井上成美】。
あの第二次世界大戦も最後まで戦争に反対の立場を取り、
戦中の只中でも何とか和平に持ち込めないかと
終戦工作に奔走したあの当時では非常に稀な方です。
多くの軍人が真珠湾攻撃の戦果に沸き返る中、
井上1人『なんてことしてくれたんだ!』と怒っていたとか。
それは井上がアメリカに留学経験があり、アメリカの力を知っていたから。

戦争が始まり、戦局は悲惨さを増してくる日々……
一向に進まぬ終戦工作に苛立ち
井上の上官でもあり一緒に終戦工作に取り組んでいた米内光政に
『生ぬるい!遅い、遅すぎる。
こうしている間にも多くの兵が亡くなっているんです!。』

と訴えたというエピソードも。

また井上が海軍兵学校長時代に陸軍士官学校が敵国語であるという事で英語教育を廃止し入試科目からも外すと、
海軍兵学校もこれにならうべきだという声が強くなったそうですが
そのような時も
『一体何処の国の海軍に、
自国語しか話せないような海軍士官がいるか』

としたうえで、
『いやしくも世界を相手にする海軍士官が
英語を知らぬで良いということはあり得ない。
英語が今日世界の公用語として使われているのは
好む好まないに拘らず明らかな事実であり、
事実は素直に事実と認なければならぬ。
外国語のひとつも習得しようという意気のない者は、
海軍の方から彼らを必要としない。私が校長である限り
英語の廃などということは絶対に認めない。』

と却下されたそう。
野球用語も「ストライク=正球」・「ボール=悪球」・
「ファール=圏外」なんて無理無理日本語に変換させられた頃ですからね。

当時海軍中央では、海軍兵学校の修業年限を
2年程度に短縮しようとしていました。
この頃の心境を当時校長だった井上は
『ただでさえ3年修業でも教育は充分でないのに、まことに不見識な年限短縮であった。このような取扱いをされる生徒は、人間づくりの最も大切な年頃を踏みにじられたもので、見ようによっては一生を台なしにされるわけで、私は校長として看過すべきではないと思った。そして、今後これ以上の修業年限の短縮には、職を賭しても反対して生徒を守ろうと決心した。』
と回想しています。
1944年(昭和19年)5月、永野修身元帥が兵学校を視察し、井上に「修業年限短縮」を切り出しましたが、井上は
『私は米作りの百姓です。中央でどんなに米がご入用か知りませんが、
青田を刈ったって米はとれません!。』

とはっきり断ったといいます。

ある時、脚に軽い障害がある若者が「入校予定者」として兵学校に来た。兵学校の厳しい訓練に耐えられないと生徒隊監事が判断し『あの入校予定者は不合格』と言い渡した際、校長であった井上の
『海軍生徒になってから事故で怪我をしたと思えばいい。
将来は航空関係の技術士官に向ける道もあろう。』

との決断によって兵学校に入校し、敗戦までの1年8か月を無事に過ごしたこの生徒は、後に某国立大学で宇宙航空研究所の教授として活躍した…という心温まるエピソードもあります。

あの当時こんな考えを持った海軍軍人がいらしたという事に、
私は本当に驚きましたし、
また、あの戦争で伯父2人を亡くしている私としては、
この様な思想を持った方が軍内部にいらっしゃったという事実に、
何と言いますか…少し救われた気持ちになりました。
しかしあの様な時代でしたから、このような井上を快く思わなかった人達から変わり者、または非国民扱いを受けたりもしたようですけれど。
そんな中でも
『海軍省が針路も見失い、
暗闇の中を懐中電灯で足元を照らしながらうろうろしていた時、
海軍省構内無線大鉄塔の上に米内・井上という
大きな灯台がともったような気がする』

と評価なさっている方もいらっしゃいます。


またしても長々とマニアックな記事を書いてしまいました
今回、石原と井上をご紹介しましたが
石原も井上もあの時代(男尊女卑が強かった)に、女性に対し
とてもジェントルマンだったという事も
私がこの2人に惹かれる一因でもあります












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